苦しさの先にあるもの

こんにちは、だいちゃんです☆

今日のテーマは『苦しさの先にあるもの』です。


なんだか、苦しい思いをすれば
それで未来に希望を持てるような

そんな風潮が

というよりも
そう思っていた方がいいような
周りにも認められるような

そんな風潮があります。

それは、最近では少しずつなくなってはきていますが
スポーツの現場では

未だにそう思っている

というよりも、思い込まされている選手が
多いのではないでしょうか。

これは日本特有のものなのかどうかはわかりませんが、日本人らしい考え方です。


農耕民族である日本人は、耐えることに馴れています。
耐えれば、米が実る。
だから、米ができるまでは何があっても耐えきる。

だけど、それと苦しさとは
関係がないような気がします。

なぜなら、米を作ることは
きっと苦しさとは別物だったはず。


自分が食べるために、
家族を食べさせるために、
自分の村を守るために


一瞬一瞬、全力で
田んぼに、稲に、米に向き合ってきた。


今と違って、少しでも手抜きをしようものなら
すぐに気候の変化や虫にやられてしまいます。

だから、全力を尽くし続けたのです。

その結果、時がくれば米が実り
一層の幸せを感じることができる。


では、米を作っているときは
幸せではなかったのかというと
本人が感じているかどうかは別として
それは幸せなことだったはずです。

だって、無心で米に向き合うということは

ある意味で空の世界にいっているのと同じ

つまり、天とひとつになっていることだから。


そんな雑念、妄念のない人間には
人智を越えた力が働き、それはそれは仕事もはかどったことでしょう。

その状態が苦しいわけがないんです。

いえ、苦しくなれるわけがないんです。


そこに、年貢やら何やらと
そういった制度ができて
自分が納得していないものの為に働くようになると

そこに『不平、不満』というものが沸き上がります。

そうすると、せっかく繋がっていた天との繋がりを絶つことになります。


その結果、不幸が訪れる。


…と、こうなってるんです。



さて、本題です。

あ、本題の前に、例題です(笑)

ここに、大きな木になる前の若木が1本あるとします。


この木は、大きくなる為に、
必死で頑張っているでしょうか?


若木は、大きくなることなど望んでいません。

だけど、若木はいつか立派な大木になります。


それは何故か。
若木は望まなくても、天がそれを望んでいるからです。
天という言葉がわかりずらいので、命に置き換えてみましょう。

命が望んでいる。
その命とは、若木の命だけではなく、命全体のこと。
つまり、若木を生かしている見えない力のことです。


それは、若木の中にもありますが、この世の中の全てのものに存在しています。
空気にも、水にも、私たちにも。
そして、それは元は1つのものなんです。


若木は、そもそも
『俺は若木だ』
なんて思ってもみてないことでしょう。

だから、『俺は大木になるんだ』
なんてことも思わない。


だけど、この世のものは全ていい方向にいくようになっているのですから

黙っていても若木は大木に育ちます。



………と、例題はここまで。

では本題。

本題が1番短いんですけど(笑)

ここまで読むと


「あれ?じゃあ何で私はスポーツで勝てないの?全てはいい方向へ向かうのが自然の摂理なら、何故私の競技力はあがらないの?」

なんて思う方もいるかもしれません。

もっともです。
若木には通用するけど人間には通用しないなんてことはありません。

そこで、一つ覚えておいて頂きたいのは

『自然の摂理、法則は、情状酌量の余地を持たない』

ということです。

これは決して冷たいわけではなく
むしろ愛に溢れています。

例えば、あなたにどんな理由があろうと
人を傷つけていたり、バカにしたり、迷惑をかけたり

そんなことをしていたら
一時はうまくいったように見えても、必ず天はあなたとの繋がりを断ちます。

天が絶つというよりも、あなたが背いただけですが。


逆に、あなたが人に親切にして、いつも明るくて、和やかで、人の役に立つなら、天はあなたを放っておきません。

必ず、あなたを自然の摂理に沿っていい方向へ向かわせてくれるでしょう。


それで、もしも本当にどうしても競技力が上がらないのであれば
それはその方があなたにとって最良の結果をもたらすからです。


だから、自分ではそんな天とつながる生き方をしていると思っても、もしも何か苦しさを感じるなら


何かが間違っています。


天は情状酌量の余地はないので
いい人を放っておきません。
悪い人も放っておきません。


苦しさの先には、我慢の先には、恨みしか生まれません。


だから、今もし何か苦しいのなら

何かを変えなさいというサインだと思って
考えてみてください。


当初話そうとしていたのは
「今、ここ」にあること
だったのですが、ちょっとずれてしまいました。

それはまた今度お話しします。

今日の話がいつか誰かのお役に立てれば幸いです。
感謝してます。